ミャンマー渡航記 ―― 四半世紀前からの妄想
2024年12月、待望のミャンマーへ渡航した。
1997年か1998年、タイ最北のメーサイからワンデーリターンビザで数時間だけ入国したことがある。以前からこの国に腰を据えて訪れ、現地の人々と触れ合いたいと思っていた。35〜37歳の頃のことだから、四半世紀以上前になる。
なぜ旅行記でこんな昔話をするのかといえば、この頃の暮らしぶりがミャンマーへの夢と深く結びついているからだ。少し遠回りになるが、当時のことを書いておきたい。
無謀にもこの頃、一人で高利貸しをしていた。金融会社2社にそれぞれ3ヶ月程度勤務したのち、個人ブローカーとして稼いでいた。業界で知り合った先輩や元同僚から情報を仕入れ、成約したらリベートを支払う約束。コミュ力高めの私は短期間でそれなりの人脈を得ていた。元々不動産業界に5〜6年おり、親和性のある不動産担保金融の関係者の知り合いがそれなりにいた。
私を利用した人たちにとっても、金融業界経験の浅い私はある意味都合が良かったのだ。
そんなわけで独立した翌月には、仲介だけで収入70万円を超えていた。
欲を出した私は周囲の忠告も無視して、手形・先付け小切手担保で月利30%の高利貸しを始めた。当然この金利で借りたい零細企業主は、銀行はおろか街金でさえもう貸せない、限度額を超えた方々だ。短期で倒産、逃亡、最悪自殺、良くても弁護士介入する確率の高い属性。貸付金額が100万以下だとしても、半年はおろか2〜3ヶ月保つかわからない。私の融資が最後の融資かつ逃亡資金となる可能性もある。
手元資金300万円程度だったが、全て3〜4社に貸し出した。
周りの心配をよそに、最初の会社は半年程度で不渡りの上、海外逃亡。2社目は10ヶ月後に弁護士介入。3社目は1年半以上持ったが、仲良くなりすぎてセオリー無視の増額を重ね、弁護士介入時の融資残は金利込みとはいえ約900万円に膨らんでいた。この頃、後に法改正のきっかけとなった「日栄・商工ファンド被害」のニュースが連日メディアを賑わせていた時期だ。
特に最初の1年は仲介案件の依頼もあり、ブローカー開始4ヶ月目には月収250万円を超えた。アホな私は江戸っ子でもないのに、集金した金はほとんど全額夜遊びとギャンブルで溶かしていた。
自前の資金の貸付先への集金が10日に1回、たまに仲介案件をこなす程度の仕事以外は何もしないので、暇な日々だ。夜遊びも毎週のように3〜4日連続で朝方まで飲み歩いていると体調不良にもなるし、若い女性たちに囲まれて過ごす時間にも飽きが来る。
そんな時によく通ったのが紀伊國屋書店だった。ノーテンキな私は金遣いが荒いにも関わらず、毎月平均250万円ぐらいはこれからもしばらく入ってくると真面目に考えており、来年の今頃にはなんとなく手元に2,000万円ぐらいあって、世話になっていた女性に500万円渡し、2〜3年放浪の旅に出ようと妄想していた。
欧米諸国に興味がなかったのでアジア・アフリカ旅行の紀行本や「地球の歩き方」をほぼ全巻、書店へ行くたびに10冊ほど購入し、喫茶店で読み漁る日々。蔵前仁一さんの「旅行人」も発刊されるたびに買っていた。
飽きると性懲りもなく夜遊び再開。周期的に繰り返していた。
旅行情報を収集しながら、頭の中で計画と妄想を膨らませるのが好きだった。香港からスタートし、中国大陸に半年、インドに半年、ASEAN各国に2〜3ヶ月(ラオス、カンボジア、ブルネイなどは1ヶ月未満。シンガポールは行かねえ)——そんな青写真だ。特にバックパッカーの紀行文を読むのが好きで、真似したいと考えていた。今現在でもそう思っている。
その中でミャンマーという国に特に惹かれた。深田祐介さんの本だったか取材記事だったか記憶が曖昧だが、「ビルマの竪琴」から始まる戦中からのビルマと日本の関係性などを知れば知るほど興味が深まり、是非とも訪問したいと思った。
悪い皮算用もあった。今となっては笑い話だが、当時の私は親の遺産が少なくとも2〜3千万は当てにできると思い込んでいたのだ。
妄想は続く。円高の時代で、タイやマレーシアも今の発展には程遠く、安いドミトリーは200円、屋台飯は100円。バックパッカー生活はそのくらいのコストだった。
ミャンマーはノービザ期間もあったが基本ビザが必要で、滞在期間も1ヶ月未満。そこで私は——国際結婚で在留資格をゲットし、親の金を当てにして現地不動産を格安購入か賃貸、1階にカフェ・レストラン、2〜3階合計8室程度の小規模ゲストハウスを実現させようではないかと、一人で興奮していた。
ちょうどその頃、不動産開発会社勤務時代の上司と再会し、毎日のように会うようになった。彼の知り合いが行きつけだった上野の中国人パブに二人で通い始めた。閉店まで居座っても一人15,000円取られない良心的な店で、上海人のママや近所に新店を出すママの妹、それぞれの彼氏さんたちを含めて親しくしてもらっていた。
私の思いは通じなかったが、そこに割と美人でスタイルも良いミャンマー娘Rがいた。当時私37歳、元上司50歳の2人で週に2〜3回通っていたが、Rは25歳で元上司の方がタイプらしかったので諦めた。
私のミャンマー好きは店に行くたびにガイドブックで仕入れた情報を披露していたので充分伝わっており、休日に高田馬場のミャンマー料理屋に何度か連れて行ってくれる良い娘だった。
興味深い話もいくつかあった。Rは日緬ハーフだった。父は東北地方出身らしく、娘のRは割と色白で日本語はネイティブ。祖母が健在でたまに会いに行くという。店ではチャイナドレスが制服だが私服だと日本人と変わらない。父はインパール戦線で戦死した祖母の遺骨収集で訪緬し、北部地方の母と知り合って結婚。あまり帰国しないという。中国雲南省への翡翠密売で財を成したというR父のロマン溢れる話に、私は興奮した。
この頃は、将来ミャンマーに骨を埋めたいとさえ思っていた。
残酷にも時は経ち、還暦を過ぎた。学も財もなり難しが現実だ。しかしミャンマーへの思いは未だ消えず、大連での歯科治療第二弾のついでに行くことにした。
ヤンゴンへ
5年越しとなった歯科治療も一応満足な結果となり、12月中旬、真冬の大連から乾季とはいえ気温25〜30℃の南国へ降り立った。
到着便でのアライバルビザ申請者は私のみ。幹部軍人らしき50歳前後の、いかつい見た目でも表情の柔和な担当官が対応してくれた。用意したピン札50ドルを渡し、3分ほどで通過。聞かれたのは旅の目的だけ、「観光」とだけ答えて笑顔で終了。
現地SIMはATOMという会社のものにした。市内ホテルまでの移動は「当然バスでしょ」とバックパッカーに倣おうとしたが、エアコン期待できないこの国で40分の路線バスはきついと判断し、Grabカウンターへ。30,000チャット払って乗り場へ向かう。
この時の記憶が曖昧だが、多分損を承知で、1万円か100ドルか、1,000バーツか100人民元かを空港内で両替したはずだ。事前に四種の通貨を用意していた。主力は円。
最近では円が弱め、ドルは昔から強め、人民元・バーツ強めとの情報を得ていた。問題は空港外の市内で良いレートの良心的な両替商に出会えるかだ。事前情報は混沌としており、若い旅人が暗いビルに連れ込まれて財布を奪われたという最悪な事態もあったという。YouTuberたちの情報でも良いレートの店が閉店していたとか、政府が公式レートを逸脱してはならないとの通達が出ているとか、高レートを望む旅行者にとって良い情報は皆無だった。
16時ごろにはホテルにチェックインできたので、アウンサンマーケットの宝石商らしきインド人や商店で外貨両替を試みるも芳しくない。両替そのものができないか、できてもレートは公定より少しだけ良い程度。その日は諦め、翌日に再挑戦することにした。
(第2回へつづく)

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